「海外で人気な日本の◯◯」 というワードが、今日もネットやテレビで飛び交う。俗に"国民性"と信じられた固有性が国境を越え、新たな価値を発揮する……そんな文化の越境性は、純粋に好奇心を刺激するトピックの一つである。
では、 海外で人気な日本のアーティスト「たかやん」 についてご存知だろうか?
たかやんはSpotify Japanが発表した 「2021年 海外で最も再生された日本のアーティスト」ベスト10にランクインし、YouTube では170万人の登録者を抱える 人気アーティストだ。
TOKION :『2021年のSpotify のデータから読み解く「日本の音楽シーン」と「海外で聴かれる日本の音楽」』より https://tokion.jp/2022/04/04/japanese-music-scene-to-be-read-from-2021-spotify-data/
たかやんを知らない人のためにも一曲紹介しよう。YouTube で1300万回再生された、彼の代表曲のひとつだ。
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……海外で人気と述べたばかりで混乱したかもしれない。たかやん の書く歌詞のほとんどは日本語である 。その上、「勝たんしか症候群」、「すきぴあでぃくしょん」、「チョロい」など、日本の若者世代のジャーゴン を多用した、翻訳してもニュアンスの伝わりづらい歌詞なのである。
ではどうして、海外からのリスナーを集めたのか? その謎を解くべくこの原稿に取り組んだわけであるが、その前に、たかやんをとりまく状況を整理しよう。
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まず、上のランキングが示すとおり、グローバルに聴かれる国内音楽の首位は、そのほとんどをアニメーション作品などのタイアップ・ソング/アーティストが占めているが、 たかやんの場合、過去に一度もタイアップを経験していない *1 。
現代、他メディアとのシナジー を利用することなく大勢の海外ファンを獲得することは至難だといっていい。過去5年分の同ランキングに目を通しても、一組*2 を除いた全てのアーティストがタイアップ・ソングをきっかけに海外のファンを獲得しているのだ。
しかし、たかやんは事情が異なる。2015年にカバー楽曲を中心に投稿するネットラッパーとして登場し、いってみれば無数の競合に満ちたレッドオーシャン から、 日本語楽曲を大量に投稿し続けることで現在の地位を勝ち取ったのである 。本人の言及がない以上詮索には限界があるものの、膨大な投稿数を鑑みるに、"狙いすまして"というより"当たるまで"バットを振り続けた結果なのだろうと推測できる。
さらに驚くことに、たかやんには Wikipedia のページが作られていないのである(追記:2022年11月21日に開設されてました )*3 。第三者 による評文を探せば「出身校は?年収は?彼女は?」といった情報ブログが出てくるばかりで、少なからず本稿を書いている2022年11月時点では、批評にしろ評論にしろ、まとまったテキストが一つも存在していない*4 。ジャーナリストも批評家も、たかやんの人気に全く意に介さないのは、一体何故なのだろうか?
以上の状況から指摘できるのは、こうである── たかやんはドメスティックな音楽輸出構造の外部で、批評も評論も要求しない、自足したグローバルなファンダムを築き上げている 。
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たかやんにはある種の"語りづらさ"がある。「ネットラップ」という雑食的文化圏から登場したジャンルレスな態度、また「オタク」の固有性がコモディティ化 した現代のオタク的表象……こうした2020年代 のインターネット表象文化の系譜を特定する作業には、常に困難がつきまとう。それに、もしアーティストもファンダムも文化的連続性を要請していないのだとしたら、言論はそもそも必要とすらされないのかもしれない*5 。
さらにいえば、 ファンダムと呼ぶべきものがどれだけ確かな輪郭を持っているかも不明 である。Spotify やYouTube のアルゴリズム のブラックボックス を漂いながらファンを獲得するネットシーンのアーティストにとって、現場は常に不在だ。議論を先取りすると、たかやんは「歌い手」シーンを揺りかごに誕生しているが、コミュニティの紐帯と無関係な力学により成長したアーティストだろうと推測している。
そのため本稿では、たかやんの日本語ラップ シーンにおける位置関係でもなく、特定のネットシーンの進化史でもなく、あくまでたかやんのパフォーマンス──ここではその身体性に着目する──を手がかりに、 一体どのような人々が「エンパワメント」されているのか、 というテーマについて検討していく。
そう、たかやんは明確に「誰か」をエンパワメントしている──「誰か」が「かわいい」と肯定されることを求め、「誰か」が「生きていい」と背中を押されることを願っている。そんな現代の様相を写し取ることが本稿の目的だ。たかやんが海外からのリスナーを集めた所以についても可能な限り推察するが、それが本懐でないことはあらかじめ示しておこう。
さて、前置きが長くなってしまった。これから、たかやんが主戦場とする動画サイトを舞台にキャリアを追っていき、 現代のポップ・アイ コンとしてのたかやん を検討する。
多少迂遠な論となるかもしれないが、お付き合いいただきたい。
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2015~2019 ネットラップと依代
「カバーから始まりましたね、自分の音楽っていうのは」 と ニートtokyoのインタビュー動画 で語るように、たかやんが初めて楽曲を公開したのはアニメ『銀魂゜ 』のオープニングテーマのカバーだった。2015年当時、たかやんはまだ高校生である。
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活動初期には「カゲロウデイズ」や「夜明けと蛍 」といったボーカロイド の人気楽曲をカバーしており、いわば、ニコニコ動画 で 「歌い手」 と称されるアマチュア シンガーとしての出自を持つことがわかる。
しかしその当初から、単にカバーアーティストとして活動していたのではない。2015年に公開された以下の楽曲は、Snail's House「Ma Chouchoute」を借用し、ピッチアップ処理を施した上で「オリジナル・ラップ」を乗せたものだ。ヒップホップ流に言えば「ビートジャック」の手法を採っているが*6 、ニコニコ動画 の文脈を汲めば、 らっぷびと を中心に勃興した 「ニコラップ」 の影響下にあるといえよう。
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その後も「カバー・ラップバージョン」と「オリジナル楽曲」をハイペースに繰り出していく(7年のキャリアで250本以上の投稿を排出している)。2016年8月には Twitterのフォロワーが5000人を越え 、2018年末頃には各動画が安定して10万回以上再生されるようになった。約3年かけて着実にフォロワーを増やしていった経緯は、膨大な投稿数はもちろん、たしかな歌唱力やユーモアあふれる人柄に支えられていたことは指摘しておきたい。
2019年に入ると「オリジナル楽曲」の比率が高くなり、またスタイルの変容が起こる。ここで取り上げたいのは、300万回近く再生されバイラルヒットした「かれぴころす」だ。
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〈他のクソアマに機種変したって好きだよ?ねえ好きだよ?ねえ〉 と一途な愛を吐露する一方で〈は?マ?かれぴころす~〉 とアンビバレンスな思いを叫ぶこの楽曲。クラブで出会ったこと、"飽きられた"こと、浮気されたこと……一連のストーリーテリング はひとりの女性のナラティブであり、たかやんはその言を授かる依代 に徹している 。
同時期にリリースした楽曲には「彼女が彼氏を褒める曲」や「全てに嫌気がさしているメンヘラの曲」、「売れないアイドルの曲」などがある*7 。全て女性視点に立つ楽曲であるが、 これまでの投稿と決定的に異なるのは、歌詞世界に呼応して、たかやんが女装をしている 点にあるといえよう。
「女装化」以前の動画を見ると、たかやんが上裸になって筋肉を誇示するような、鍛えられた マッチョ姿 、いわば男性性を強調するパフォーマンスが散見される。それはリスナーにとって一種の「ギャグ」として成立していたのだが……こうした身体的パフォーマンスについては後に論じる。ひとまずはキャリアの追跡を続けよう。
2019~2021 折りたたまれた次元とポータル
さて、「かれぴころす」から3ヶ月後、たかやんは さらなる転換 を見せる。
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2019年6月に公開した「やすうりうーまん」は、エロ垢、すなわち自らの性的な写真を投稿する女性像を描く。〈体晒す快感 理想の自分と程遠く 寒気と虚無感が残る/もう慣れてきた 注目されて幸せ 今〉 と孤独と承認を揺らぎつつ、〈開く、エロ垢 悲しい。〉 とメランコリックなトーン。サムネを見て明らかなように、 この一人称の語りの話者は、イラストに描かれた女性である 。
マッチョなたかやん、ないし女装したたかやんは画面上から後退し、イラストに取って代わられたのである。
この転換をもって、 「たかやんが歌う物語」は話者を交代し「イラストに描かれた女性の物語」となった。そして、よりフィクショナルな歌詞世界を構築することとなった のである。
ひとりの人物の語りが基調となっている点において、たかやんの方法論は大きく変わっていない。表象が身体かイラストかという点に変化があるが、しかし、以下の画像を見比べてわかる通り、印象は180度変わる。
当時の再生数の上昇を鑑みるに、 「イラスト化」が何らかの効果をもたらした ことは間違いない。ともすれば、これが 海外ファンと繋がるポータルを開いた第一歩 となったのではないだろうか。
ここから以下のような説明を試みたい──「イラスト化」には二重の効能があった。すなわち、 身体の棄却による文脈の解体 と、 ジャパニメーション との接近だ。
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第一に、身体を棄却し「イラスト化」を果たしてから、たかやんの固有性は声という徴表にのみ限定されており、サムネイルに連なるひとりのシンガー/ラッパーの姿は隠蔽されることとなった。
これにより、 シンガー/ラッパーとしての連続性を後退させ(=自ら文脈を解体し)、どの地点からでも参入可能な、個々に独立したフィクション世界群を立ち上げることに成功した のではないか。
この変遷は、筆者が考えるに、アルバムという形式が力を弱め、楽曲という単位に重点が置かれる現代の状況に対応している*8 。楽曲がリスナーに届く経緯を考えれば合理的な選択であるはずだ。YouTube のUI特性では、楽曲のサムネイルとタイトルだけが文脈と切り離された状態で差し出されることで、初めてリスナーの目に届くのである。
たかやんがこの状況に自覚的かどうか定かではないが、楽曲毎に異なる「絵師」を起用し、トーンもタッチも統一されないサムネイル群を容認していることは、連続性のあるポートフォリオ よりも楽曲単位の個々のパッケージの完成度を優先している証左だろう。
ともかく、ひとつの楽曲にひとりの人格を吹き込んで歌うたかやんにとって、人格の主体を「イラスト化」したのはごく自然な路線変更であるように思える。しかし画面上で身体を棄却した副作用として、 全く独立したキャラク ターたちが各々にアルゴリズム に則って分散し、全く独立した物語としてリスナーに受容されるに至った のではないかと筆者は考える。
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そしてもう一つ、「イラスト化」がもたらした効能は、 既に世界的なマーケットに普及する「ジャパニメーション 」との接続を可能にした ことである。
たかやんは「イラスト化」以降、楽曲をアニメーションで表現することにも挑戦してきた。1600万回超の再生数を誇る「どうせ無くなるだけ」はショートアニメーション作品でもあるのだ。
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ここで参照したいのが、たかやんの公式ファンクラブであるDiscordサーバーだ*9 。サーバーの公用語 が英語となっている通り海外ファンを中心に、"たかやん愛"から日常会話までを包摂するチャットスペースとなっている。
このファンコミュニティのチャンネルのひとつに、参加したユーザーが自己紹介をする「#introduce」がある。2022年10月8日時点で全1995件の紹介文が投稿される中、335件の投稿に 「anime」 というワードが含まれていた。このアニメ愛好家の割合を指す約17%という数字(紹介文が簡素なユーザーも少なくないため潜在するアニメファンもいるだろう)を有意に高いと捉えるならば、 たかやんのファンコミュニティとアニメカルチャーの距離は近い 。
「どうせなくなるだけ」のほかには、「浮気は犯罪行為」、「玩具」などのアニメーションを用いた楽曲も、再生数が1000万回を超える大ヒット作となっている。もしかすると、日本製ショートアニメを見るような動機でたかやん作品にリーチした人々がいるのかもしれない。
また、英語やスペイン語 、韓国語といった諸外国語で書かれたYouTube 動画へのコメントを見ていくと、 「これを聴いて日本語を勉強している」 といった旨のものが散見される。さらに、上のDiscordサーバーにも「#jp-learning-chat」という日本語学習に特化したチャンネルが用意されている。
日経新聞 の報道によれば、ジャパニメーション などのポップカルチャー を日本語学習の入り口とする傾向が近年強まっているという*10 。イラストを前景とするたかやん作品が"教材"となっている事実は、それがジャパニメーション と近い位相にあるためではないか。
筆者が指摘したいのは、たかやんの女装からイラストへの転換が、 ジャパニメーション を中心とした巨大なネットワークへのアクセスを可能にしたということだ。おそらくはYouTube のアルゴリズム というブラックボックス により目視できぬ回路が、一人のアマチュア シンガーと巨大市場を結びつけたのだと考えられる。
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以上のように、たかやんの「イラスト化」は二重の効能をもたらした──しかし、先に「ポータルを開いた第一歩」と述べたように、たかやんのキャリアにはさらなる転換が待っている。
「イラスト化」以降、たかやんは再生回数100万回以上のヒット作を立て続けに繰り出していく。
しかし2019年から2020年の間、「イラスト化」した楽曲が圧倒的に多いものの、以下の画像のように、本人が登場するケースも少なからず投稿されている。
おそらく、この当時のたかやんはリスナーの反応と対峙しながら様々な実験を行っており、中にはアニメーション作品(「どうせ無くなるだけ」、「浮気は犯罪行為」)や入念に編集された実写ミュージックビデオ(「ヘラってなんぼ!」、「生きる意味なんか知らねえ」)などを展開している。
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それから2021年2月、筆者が考えるに たかやんのキャリアにおける最も重要な変化 が起こる。冒頭に貼った「勝たんしか症候群」を半分以上視聴した読者であれば、既にその変容を目にしているはずである──つまり、たかやんは イラストとフィジカルのハイブリッド となったのである。
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どういうことか。動画の中間までシークバーを進めると、それまでのイラストが切り替わり、室内で撮影されたたかやんの姿が現れる。多くの場合、実写パートはワンカットで撮影されており、いわば、2019年以前・以降のパフォーマンスが合流したような形であるが、 初めて見た人であれば、強烈な違和感を味わうのではないだろうか ──たとえば、可愛らしいイラストに惹かれてサムネイルをクリックしたリスナーであればなおのことだ。
「ハイブリッド化」以前/以降の比較(筆者作成)
この変遷を実際的な観点から考察すると、おそらくはTikTok への目配せがあっただろう。歌詞に対応するボディランゲージ的な振り付けからは、TikTok のダンス動画を触発する意図を汲み取れる。また、実際に「勝たんしか症候群」が コムドットやまと や ゆら猫 といったインフルエンサー に用いられたことを契機に、振り付けが上半身の小ぶりなパントマイムに集中するという、TikTok への最適化が進行したといえる。
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このように、フィジカル優位なプラットフォームたるTikTok での新規開拓と、従来的なイラストが既に人気を集めていたこととの折り合いを経て「ハイブリッド化」というパフォーマンスに繋がったのだと推測できるが、もう少し踏み込んで考える必要があるだろう。すなわち、 考えるべきは身体の所在についてである 。
── 二次元と三次元をスイッチし、身体の不在と実在を往還する、 この運動にこそ、たかやんの表現の核がある からである。
「病み」の美学と身体
あらためてたかやんが取り扱うテーマについて見ていくと、たとえば、セフレに対する独占欲、浮気された怒り、元カレに対する未練……こうした現代の「病み」が中心を占めていることがわかる*11 。 たかやんが示す身体の不在と実在の揺らめきは、「病み」という感性と密接に繋がっている 。
ここで現代の「病み」を詳述すべく、歌舞伎町の若年層を中心に流行する 「地雷系」 というファッションスタイルを参照する。なお、地雷系表象はたかやんも頻用するところであり、「勝たんしか症候群」のイラスト然り、本人もそのファッションで歌うことがある。
地雷系とは一体なにか。『歌舞伎町新聞』による「 2021 歌舞伎町流行語大賞 」という記事から引用すると、「地雷系ファッションや、地雷系メイクと言われるものに身を包」み、「泣きはらしたような赤い目元や血色感の無い肌、真っ赤なリップなど、 病弱さを演出し、病み感を出すのが特徴 」なのだという。
歌舞伎町をフィールドワークする『「ぴえん」という病』 (佐々木チワワ)から引けば、彼女らは、市販薬のオーバードーズ やリストカット 、酒、煙草までファッションの一部として消費し、"あえて"不健康を志していることが記されている。
この 「病み=かわいい」 という等式が成立した地雷系ファッションは、歌舞伎町に限らず地方のコンカフェなどにも波及しており、土着的な文化というよりはインターネットを通じた地域横断的な事象として現れている。たかやんが歌うように 〈めんへら じたい じっさいふぁっしょん〉 *12 であり、その射程の広大さは確認しておく必要がある。
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ともあれ、 健康的な身体の"否定"を美意識に転換している のが地雷系なのだといえよう。美を死に照射し、その影を生として受け入れる──このようなロジックはゴシック・カルチャーにも見られるが*13 、地雷系がパンデミック 以降に流行したことを鑑みても、ある種、比較的カジュアルに、不安に覆われた社会をそのまま環境因子としてビルドインしたスタイルなのだと考えられる 。
また、こと若年層のリアリティに即してピンポイントに指摘するならば、 現代の過剰なルッキズム に対する忌避反応 として、身体への不信が現れているのではないかと筆者は考えている。2022年の流行語大賞 には「ルッキズム 」がノミネートされているが、その問題はこれまでになく深刻化している。たかやん作品においても美醜の問題は度々言及される重要なトピックでもあるのだ。
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退廃的な現実認識による生への違和感、あるいはルッキズム に拘束された身体への不信──それが地雷系という「病み」を埋め込んだファッションスタイルに結実している。 身体への諦念を反転的に美意識へと向かわせるような力場 が、ここに見られるのである*14 。
さらに、身体の否定を根拠とする「病み」の美学は、二次元という非実在 空間によって育まれてきたことも指摘したい。SNS を主戦場とするイラストレータ ーによって生成され、「#病み」や「#メンヘラ」などとタグ付けされる 「病み」を主題とした二次元表象 は、地雷系の伏流にも認められるだろう*15 。
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このように考えると、たかやんのキャリアにおける「イラスト化」は、地雷系を代表とする「病み」カルチャーの美学と紐付いていた──身体への不信、あるいは二次元表象の羨望*16 は 「アンチ・フィジカル」 ともいうべき感性として顕現し*17 、たかやんの示す次元の揺動と一致するのである。
そして、身体の不在と実在の断崖に立った上で、否定と肯定 の両極をゆらぐ「アンチ・フィジカル」の感性を十分に汲んだ上で、たかやんは、筆者の見る限り、 特に「ハイブリッド化」以降、身体の肯定を強く示すようになった ──ということを予告して、本稿は終盤へと向かう。
侵入する 〈僕〉とエンパワメント
2019年以降の「イラスト化」期のたかやんの楽曲を見れば、「死にたいより消えたい人の曲」や「どうせ無くなるだけ」、「全部くだらねえ。」といった楽曲で、身体の否定を訴える作品を作ってきたことがわかる。
しかし一方で、「ハイブリッド化」以降、〈君はずっとありのままでさ平気 このままラフに行こうよ〉 と歌う「ありのまま」、〈僕らなりの世界へ行こう 生きてくれてありがとう〉 と歌う「大丈夫」……など、たかやんは、 実在する身体を、人生を、直截に称揚する歌 を歌ってきた。
ほかにも「全部が嫌いだ」や「毎日がゴミすぎてつらい」といったタイトルであっても、〈何故死ぬのに僕らは生きるのだろう?(略)じゃあ後悔の無い物語を。〉 、〈逃げたいけど見返したいから 歯向かってあたっく!!! ウチらいちばん!!!!!〉 と、リリックに込められているのは 強烈な生への志向 なのだ。
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──気づいただろうか、ここに引用した歌詞には 〈君〉や〈僕〉、〈ウチら〉 が登場している。大まかな傾向として「イラスト化」期のたかやんは女性の独白を代行する依代 として歌ってきたが、「ハイブリッド化」を経て、〈僕〉という、 たかやん本人以外に代替されない一人称 が頻繁に現れていることを見過ごしてはならない。
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ここでたかやんの表現上のパーソナリティの変遷を辿るべく、本稿で据え置いていた議論を呼び出そう。たかやんは2019年以前、男性性を強調するようなパフォーマンスを行っていた事実がある。筆者はそれを「ある種のギャグ」として成立していたと指摘したが、もう少し詳しく説明したい。
たかやんは2016年時点で「18歳 童貞彼女無歴=年齢」と 自称していた ように、恋愛市場における"弱者性"を自嘲的にあらわしていた。以下の動画では、いかにも"恋愛強者的"な楽曲である「 甘えちゃってSorry 」を「非リアバージョン」としてカバーしているが、これは童貞という属性を代表して恋愛そのものをカリカチュア ライズする意図があったのだといえよう。
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こうして非リア像とマッチョ姿を並列して披露していたたかやんは、男性性の在り方について、倒錯的なパフォーマンスを行っていた。ある種、双極的にデフォルメされた男性性は、少なからずリスナーにとってはパロディ的なものであり、その落とし所が「笑い」にあったのだといえる。
それから女装姿に転向した当初、「笑われることに譲歩する」危うさが依然として存在していたように筆者には感じられる*18 。しかしここまで見てきたように、たかやんは「女装化」あるいは「イラスト化」以降、女性の等身大な「病み」を表現し続けてきた。このように変遷を追えば、たかやんは創作活動において、"弱者"としての男性性と"マッチョ"な男性性、さらに"病んだ"女性性という 錯綜したパーソナリティを表象してきた ことがわかるはずだ。
さらに「ハイブリッド化」以降、パーソナリティの錯綜は歌詞世界にまで侵食していることは既に述べた通りだ。イラストに描かれるのが女性であるのに反し、〈僕〉という人物が登場し、〈君〉や〈貴方〉に向けて歌われる──下の楽曲を例にすれば、タイトルの「全部が嫌いだ」と訴える話者はイラストの女性、あるいは同様の悩みを抱えたリスナーであり、その対象に向けて〈僕〉(=たかやん)がエールを送っている。
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映像表現においても、女装姿に並んでラフなTシャツ姿やジャージ姿──そのままのたかやん──が同一の動画内に登場することがある。以下の2分17秒以降では、セーラー服、地雷系ファッションといった女装と"そのままのたかやん" が、あたかも等価のものとして現れているのだ。
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注意せねばならないのは、「イラスト化」期にも〈僕〉が現れることがあり、「ハイブリット化」期にも女性の一人称として歌うことがあるという事実だ。しかし重要なのは、「ハイブリッド化」という新たなフォーマットを手に入れたことで、 錯綜をそのままに、たかやん作品というオムニバスに実体のある〈僕〉を導入できた ことである。
実体のある〈僕〉とは、2015年より創作活 動を続けてきたたかやんであり、「病み」の人格を数百と口寄せしてきたたかやんである。したがってそれは、 少なからず歌詞世界においては、"非モテ "の男性性だけでなく、浮気をされ*19 セフレに焦がれ*20 陰キャ でも恋をして*21 同性を愛して*22 好きな人に傷つけられ*23 リスカ をし*24 エロ垢で自尊心を傷つけ*25 虐待を受け*26 整形に溺れ*27 推しに溺れ*28 二次元に溺れ*29 生理痛にボコされ*30 鬱っぽくて*31 人生に呆れていて*32 全部くだらねえと思っていて*33 生きる意味も分からなくて*34 病んだ女性性*35 を包括する、 パラレルな人格を飲み込んだ〈僕〉なのである 。
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ところで、本稿の導入で提示したテーマを覚えているだろうか? それは 一体どのような人々が「エンパワメント」されているのか 、という問いである。
ニート tokyoのショートインタビューを紹介しよう。「一番の善行を教えてください」という質問に対したかやんは、「音楽活動を始めて、DMがちょくちょく来るんですよ。その時に、『たかやんさんの音楽に救われました』 とか、 『たかやんさんのおかげで自殺を止めました』 とか、(略)そういうDMを見た時は音楽やっててよかったなって思う」と語っている。
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たかやんはキャリア初期からも「誰か」を奮い立たせようとするリリックを書いてきた。既に紹介した「一歩踏み出そうよって曲。」や下の「できる」という曲は、たかやんが高校生の時に投稿したものだ。
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しかし、たかやんが実効性をもって「誰か」をエンパワメントするに至ったのは、自らの身体を不在と実在の間で揺曳させることでしか描けなかった人々(=アンチ・フィジカル)を表現し、その上で 総決算としての〈僕〉を作品世界に導入できた からである。
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たかやんの動画につけられた外国語のコメント*36 には、「病み」の描写を指して「リアリスティックだ」 という賞賛の声がある。「推しへのガチ恋 」や「パパ活 」、「リストカット 」といったモチーフは日本にローカルなものだと筆者は考えていたが、その限りではないようなのだ── どうやら「病み」の射程は、不幸なまでに広大らしい。
ともすれば、歌舞伎町の、あるいは日本の、あるいは海を超えた先の「病んだ誰か」が〈僕〉に出会うことができた というのは、幸運といわざるを得ないだろう。(了)
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