『ユリイカ2024年10月号 特集=いよわ』

自分も寄稿したユリイカ10月号についてメモ。

なんかたぶん、今はクローズドな場所で感想を言い合うのが安心だという世の中なので、逆にブログとかで書いた方がいいかなと思って、短いですが書きました。なぜなら自分は自分が書いたものの感想、読みたいから(全論考に言及するわけではありませんが…)

www.seidosha.co.jp

DTM/創作」について

「ボカロシーンはDTMの文化が成長する過程で生まれた場所だった」と述べたのはヒッキーP(『合成音声音楽の世界2021』)(以下、人名は敬称略)であるが、まさに今のボカロシーンを代表する作家の特集において、フォーカスされるべき対象としてDTMがあるだろう。

FlatによるインタビューはDTMについてめちゃくちゃ深堀りしている。演奏→編集というプロセスで自身の発想の外側にアクセスできるといったことや、ピアノロールを視覚的に捉えることで「サビに向けて階段みたく上げていこう」というような発想が生まれること(そういえば、鮎川ぱてがNHKの番組で「DTMの革命は視覚にある」的なことを言ってた)など、DTMならではの小話が詰め込まれていて大変おもしろかった。ミクとflowerなど複数のボカロを同じ音高で同時に歌わせる手法について、「ミックスの都合でオケに負けるから」といった言質を取れているのはだいぶアツい。ヘンな制作をしてるんだろうな、というのは音楽の端々から伝わってくるが、その手法と理由にまでしっかり踏み込んだ貴重なインタビューだと思う。

いよわのおもしろさは、初期の作品からあきらかにDTM(イラストも然り)が上達していく様子を追えるところにもあると思っている。横川理彦の論考(「DTM観点から「いよわ」を分析する」)は、これまでの作家のリリースに全レスし、「ここで初めてサンプルを使用している」とか「ミックスの技術が向上している」と技術的な観点で指摘するものとなっている。横川は自著で「近年の音楽において、メロディ・リズム・ハーモニーの三要素以外に音色が重要です」といったことを書いていたが、DAW上で処理され、記譜され得ない音色について記述していくぞという態度がみられる。

自分の論考(「いよわと、いよわたちの世界を裂くもの――DTMグリッチ、インターネット」)では、作家を取り巻くDTMコミュニティに着目して、そこにどんな美学が存在していて、いよわがそれをどのように実現しているか、といったことを書いた。編集部からは「hyperpop/digicore的な同時代的な音楽といよわを接続しつつ、ニコニコ動画YouTubeTikTokといったプラットフォームでの受容について書いてほしい」といった依頼があり、おおむねそのオーダーには答えられたと思う。テーマは、「つまづきかた」である。

クリエイター・コミュニティへの言及というところで共振するのはFlat「多様なボカロ曲――いよわを通して見るシーンのバラエティ」、しま「合成音声音楽のオルタナテイブを見つめて」など。自分が論考でサラッと書いてしまったボカロシーンの「個性の文化」なるものを精緻に書き上げているようで、非常に助かるDIYなメディアで積み上げてきた信頼が両者にはある)。「個性の文化」なるものが、DTMという制作技法のなかにある程度見いだせるという点は、ボーカロイド文化あるいはいよわという作家を考えるのに重要になっていると思う。原口沙輔やフロクロといったコミュニティ内部のクリエイターの文章もそういった観点から読める。

それから、いよわは頻繁に創作の現場について自己言及する作家である。だからこそ今号ではDTMという手法についての語りが重要なのだと思うが、もうすこしテクスト批評的なアプローチで、「創作」と「創作されたもの」の合間に分け入っていくような原稿として河野咲子「潜む声、屍としての少女――『わたしのヘリテージ』の(メタ)フィクションを読む」がある。「作品=永遠の生」に対する「作者=やがて死ぬ」みたいなクリエイター(コミュニティ)への自己言及の様式を、いよわはよく使う。河野は、そんなメタフィクションはいわゆる「作者の死」とは整合しないと断じたうえで、そこに生じるエゴ(作品が永遠に残ったらいいな〜というロマンチシズム)と、そのエゴに向けられる軽蔑を『わたしのヘリテージ』から掬い取って、後味の悪い歓びを見出すといったことをしている。今号はぶっちゃけファンブックみたいな向きで売れているフシもあるが、クリエイターバンザイ!な風潮のなかでこのような論考があるのは、いきなり薄暗い奥底に引き込まれたような感じになり、大変おもしろかった。

「考察」について

まあそんな状況下、Twitter上で「ネタバレ食らわないようSNS離脱します!」みたいな宣言をするひとがいたのはちょっとびっくりした。そういう性質の本ではないと思うんだが、置いといて、しかし、世にはびこるネタバレ忌避って、私的体験を最大化したいみたいな欲からきているんだと思うと、その最たるものが「考察」だ、といってみてもいいかもしれない。

木澤佐登志や難波優輝など、多くの執筆者がいよわの考察者について触れていて、考察という労働と一体化した消費の在り方について批判的な向きもみられるが、一方でスッパマイクロパンチョップは「(考察が)いよわワールドへ一層深い奥行きを加えてくれていて、もはやそれも含めてのいよわワールドという感じがする」と、いちディガーとしての意見を述べる(「和合と解放のアニミズム」)

木澤が論じたYouTubeアーキテクチャ上で生じる疎外の話(「ボカロ、暗号、いよわ――考察・歌ってみた・寄り添い」)で、うっすら自分が連想したのは、2010年代末のYouTubeの景色である。二次元イラストでポスト・ボカロ的な雰囲気のあるSSWの動画に溢れる、「見つけちゃった感」というコメント。たとえば和ぬかやらすいそうぐらしのことなんだが、普通に大手レーベルが(大っぴらにしないが)仕掛けていて、かつ最小限の予算で種を蒔いているようなセコいプロジェクトに対して、私たちは「見つけちゃった」と喜んでしまう。やっぱりそれは、スッパ氏がPuhyunecoyeahyoutooを「見つけちゃった」のとパラレルなんだけど、決定的に異なる出来事と思いたいところである。が、アルゴリズムにひたすらかき回されるなかで出会ったものに対して「考察」という労働にコミットしていってしまう悲哀もそこにはあるなー、とか、いまはそうした体験もTikTokに全面的に移行したんだろうけど、なおさら刹那的な悲哀を帯びている気もするなー、とかを考えたりする。ともあれ、そのブルースの伴奏には、尻切れトンボのリリースカットピアノがよく似合うわけである。

あと、考察を誘発する要因として、岩倉文也がいう「音楽と映像がびみょうにズレている」という指摘(「物語の断片と、跳梁する言葉の影で――いよわ作品における物語の位相」)は結構重要だなと思った。というのも、今号を読んでいるなかで「エッ、この曲そういう設定だったの?」という驚きがいくつかあったのは、おそらく自分が音楽のみを聞いているか、映像のみを見ているか、歌詞のみを読んでいるか、といったことから生じているだろうから。原稿を書くのにできるだけ外側から、考察の重力場(青島もうじき「いよわの惑星――合成音声の化石化はいかにして(不)可能となるか」)に飲み込まれぬよう、一意に、端的に読み込もうとしていたのが仇となった感もある。

 

---

 

最後に、全体の構成が非常によかったと思う。自分は書いてる間「被ったらヤダなー」とか思ってたけど、全然そんな心配はせずによかった。あと2007年のユリイカ初音ミク特集から一新されつつもそこからの線を引こうとする方もいたように思われ、暇なときに並べて読んでみようかしらん、とも思った。