「Y2K」と「ゼロ年代」、「ポストヒューマン」と「チート系」

最近考えたこと
  • Y2K」と「ゼロ年代」、「ポストヒューマン」と「チート系」
    舞城王太郎九十九十九』を読んでふと思った。本作の主人公である九十九十九(そもそもは清涼院流水のJDCシリーズの登場人物)は「美しすぎるがゆえ目が合うだけで失神してしまう」、「美しすぎるがゆえ火にあぶられても死なない」といった設定で、人間を超越したポストヒューマンとして描かれている。ゼロ年代の作品だし、これはY2K文脈でよく用いられるポストヒューマン像と関連があるのではないか。が、少し考えてみるとそんなわけはなかった。「Y2K」という言葉が指す範囲はディケード単位のものではなく(定義はまちまちだと思うが、一般には)、90年代末〜00年代初頭ミレニアム前後を指し、iMacはじめゲームボーイやらたまごっちやらのスケルトンな筐体が象徴するような未来志向のニュアンスがある(ニッポンの未来はwow wow wow wow的な期待なのかサイバーパンク的なシニズムなのか曖昧なところではある)。そもそも『九十九十九』は2007年の作品なのでここでいうY2Kとは時代が異なり、テクノロジーの要素もない。Y2Kという流行りのタームに飛びつく前に、(舞城王太郎西尾維新などのメフィスト出身の作家が以前より検討されてきたように)ゼロ年代批評の俎上に乗せるべき対象である。
    →念の為、ここで指す「Y2K」はY2K Aesthetic Institute的なものである。ルーズソックスなどが当てはまるかというとわからないが、そういえば、舞城王太郎作品にはギャル的存在が欠かせないといえる。
    →ここで取り出すべき性質は「超人性」。同じ「超人性」といっても「チート系」と「ポストヒューマン」は異なる。九十九十九はチート系でありポストヒューマンではない。単純化しすぎかもしれないし並べて語るべきか分からないが大まかにいえば、前者は「ゼロ年代」的でメフィスト系〜異世界転生系ラノベにもつながる文脈となっていて、後者は「Y2K」的で国内でいったらで攻殻機動隊のようなハードめなSF作品が代表例となる(たぶん)。あくまで日常から逸脱することがチート系で、非現実な未来的存在となるのがポストヒューマン。「誰も見たことのない景色だけを見る 俺は子供の頃からずっと天才でいる」というTohjiはあくまで現実でのチート性を強調するが、ファッションはY2K。複合型である(いや、Y2Kリバイバルってそういうものかもしれない)。Y2Kに関してさらに複雑にするならばエヴァ最終兵器彼女の「セカイ系」というタームが隣接しているように思えるが(テクノロジー描写を伴う場合に限るが)、ところで、書評家・翻訳家の大森望氏が「SF小説はだいたいセカイ系ですよ」的なことを言っていたのを見てそれはどうなんだと思った事がある。日常との距離、サイエンスな描写の強度、物語構成の焦点などの尺度でこれらのワードが使い分けられているのだろうが、混同してしまうと不適切な文脈に乗ってしまうということを思った次第
  • 「批評」とはなんぞや
    →なんやら最近評論じみた原稿を書くことがあるが、読書といえば8割がた小説しか読まないのでいわゆる「批評」というものを勉強する必要を感じ、図書館でいくつか批評という名のつく書籍を借りてきた。その中の一冊、佐々木敦『批評王』の序文で「私の考える批評とは、単なる分析とも価値判断とも違う。批評対象との遭遇体験がトリガーとなって思考が起動し、文章そのものがそれについて考えるプロセスをトレースするような、言語で構成されたロジックとレトリックの交叉体のことである。」と書かれていた。それから亡くなった大叔母の家から拝借した『林達夫著作集』をいくつか読んで、上のテキストの意味がより理解できた気がする。趣味で行っている園芸という領域から、アマチュアとプロの違い、またアマチュアの存在意義について論じたテキストは他分野でも代入可能な思考となっていた。あと福嶋亮大『百年の批評』で『九十九十九』の言及があり、「これを書くために日本語があったんや」みたいなことが書かれていたのでついでに借りてきたという経緯がある。これまで舞城王太郎積ん読はあるもののなんとなく読んでいなかったので読む機会となってよかった。こうやって誰かの思考・嗜好の幅を広げられるような批評が書けるといいなーと思いつつ、たとえばTwitterのプロフには批評家と書くとしたらどんなタイミングなんだ……わからねえ……と思った(以前Soundmainの編集の方と「インターネット・フィールドワーカーっていう肩書いいじゃないですか」と盛り上がったことがあったが、それもなんか恥ずかしくてできていない)。
  • Rosalíaと元ちとせ
    →ちょっと前だけどRosalíaにドハマりして毎日聴いていた。すごく大雑把にいうとフラメンコに現代ポップスの処理が合わさっているところに新鮮味があるわけだけど、元ちとせ奄美民謡に強めのオートチューンをかけたら近いものになるんじゃないかと思った。『ハイヌミカゼ』の「サンゴ十五夜」などはビート強めなトラックでRosalíaっぽさがある。奄美に限らず、演歌歌手とか独特の節を持っている人の歌声にオートチューンがかかるだけでめちゃくちゃアガると思うのでそうした例があれば是非教えてください。

最近気になっていることなどを週1くらいでメモ的に吐き出していこうという試みです。人に見せるタイプの日記とも言えます。とりあえずは記述の正当性などあまり考えずにやっていくので「そんなこたないやろ」と思われる点も多々あるかと思いますが、なにとぞよろしくお願いします<3